検査でバリウムと下剤を飲んでいるので、どうしてもお腹が気になるため、午後はずっと部屋で大人しくしていました(笑)
さて、一昨日放映された大河ドラマ「べらぼう 蔦重栄華乃夢噺」の最終話(第48話)「蔦重栄華乃夢噺」。
いやぁ、笑いあり涙ありユーモアありの粋な最終回で、観終わった後に思わず拍手喝采をしてしまいました。
ホント、1年間、このドラマを見続けることが出来て幸せでしたね。
そして、このドラマは、蔦屋重三郎が、森下佳子という当代随一の戯作者に書かせた、とびっきり面白い現代の「黄表紙」なのではないかと、そう思った次第でした。
尚、この最終話の感想は、非常に長くなるので、前後編の2回に分けて掲載します(笑)
で、今回は、秘密裏に阿波に送られた一橋治済のその後から始まりましたが、この男、小用を足したいと言って閉じ込められていた箱から外に出た際に、隙を突いて付き添いの侍の刀を奪って刺し殺し、そのまま逃走してしまいました!
降りしきる雨の中、川を渡ろうとする治済。
そして、気味の悪い笑い声を上げ、「待っておれよ、傀儡ども!」と叫んだ時、落雷がその体を貫き、治済はそのまま絶命してしまいました!
尚、この落雷ですが、治済が振り上げた刀ではなく、治済の頭に直撃していました。
まるで狙いすましたかのようなその紫電一閃には明らかに意志があったように見えました。
落雷の瞬間、私は思わず「源内・・・」と呟いてしまいましたが、死して雷獣となった源内がエレキテルで治済を誅殺したのでしょうか。
これはまさに「天罰」が下ったと言えますが、「天は天の名を語る者を決して許さぬ」ということなのでしょう。
尚、この稀代の悪党は阿波送りになって終わりかと思われましたが、制作サイドは容赦なくその命を絶ってしまいました。
いやぁ、この顛末には本当に驚かされてしまいましたが、本作の治済には相応しい最期だったように思いますね。
一方、治済の替え玉となった斎藤十郎兵衛は、絵の心得があるようで、写楽の絵を模写して蔦重に「お上手にございますね」と褒められていました。
「しかし、写楽絵は、今、かような段取りで作っておるのか」と言う十郎兵衛。十郎兵衛の描いた絵もまた写楽絵となるのでしょう。
そして、蔦重は「せっかくここまで顔を作り込んだもの、使い回さぬ手はございません。顔を真似て描けば、それは写楽絵となるのでございます」と答えていましたが、なるほど、これが写楽の絵の構図や画風が大きく変わっていった理由なのですね。
すると、そこに、治済が道中で雷に打たれて命を落としたという知らせが入りました。
又、治済の亡骸の傍らには、「”変わった髷の男”が佇んでいたが、皆がやって来ると消えてしまった」と伝えられていました。
それを聞いた蔦重はきっと「源内先生だ」と思った筈ですが、それは口に出さず、本物が死んでしまったなら、病死とかということにして、十郎兵衛を解放出来ないかと尋ねました。
しかし、蜂須賀家では十郎兵衛は逐電したことになっており、既に新しい斎藤十郎兵衛が支度されているため、「自分は戻る先も無い」と十郎兵衛は語りました。
更に、その逐電は全く騒ぎにはならず、十郎兵衛は「私など、いていなくても、さして変わらぬ者であったということだ」と淋しそうな表情を見せましたが、それでも「この(替え玉)の暮らしも悪くないと思っている」と笑顔を見せました。
「毎日美味いものを食べ、ただ遊んでおればよい。夢のような・・・」と語る十郎兵衛でしたが、彼もまたある意味で飼い殺しの傀儡であると言えます。
そう考えると、ちょっと悲しくもありますが、それが能役者斎藤十郎兵衛が生涯を賭けて演じる役割であり、使命でもあるのでしょう。
因みに、この報せを伝えに来た田沼意致ですが、前回、松平定信が「元家老であった田沼の甥などを内々に入れるよう計らっておる」と言っていましたが、意致は田沼意次の甥(意次は父方の伯父)にあたります。
意次が失脚して田沼派が一掃された際、意致も御用御取次を罷免されて菊の間縁詰となりましたが、御側御用取次として再登用されるということは、よほど仕事が出来る有能な人物だったということなのでしょう。
又、後年には意次の息子の意正(田代玄播)が相良に復帰し、復権を果たすことになるのですが、田沼はしっかりと生き残ったワケです。
それと、ナレーションで、これまで斎藤十郎兵衛が江戸市中の流行り場にちょくちょく現れていたことが説明されましたが、看板娘の行列に並んでいたりとか、松平定信の老中辞職の読売を買っていたりとか、それは実は十郎兵衛だったという答え合わせがありました(笑)
その時はてっきり治済のお忍びの姿だと思っていましたが、替え玉だったなんて、判るかい!そんなもん!(笑)
ただ、替え玉だと判ったうえで見ると、ちょっと表情とか仕草が違うのが判りますね(笑)
あ、そう言えば、このドラマでは以前にも「朋誠堂喜三二を探せ」がありましたが、なかなか手の込んだ遊びを入れて来ます(笑)
で、模写で写楽絵を発展させた蔦重ですが、コピペで作った全身図は思ったほど流行らず、写楽は寛政7年(1795年)の正月を限りに打ち切ることになりました。
登場から僅かに10ヶ月、正体不明の謎の絵師写楽は忽然と姿を消してしまうのです。
尚、写楽の正体については、当時の名だたる絵師の殆どが候補として上げられており、中には松平定信という声もあることに仕掛けた張本人の蔦重も驚き、太田南畝も「人というのはつくづく思いがけぬことを考えるものであるな」と感心していました。
そこで、北尾重政が「写楽は歌だってなぁ言わねえのか?いっち骨折ったのは歌じゃねえか」と言い、蔦重も歌麿に「歌麿先生はどうだ?世に知らせてえか?」と尋ねましたが、歌麿は「俺の絵って言われてもしっくりこねえし、皆が写楽、それがいい」と笑顔で答えました。
すると、蔦重は「皆に相談がある」として、「実は、陰で骨を折って下さったお方がいんですよ」と言って斎藤十郎兵衛の名を出しました。
そして、蔦重は東洲斎写楽の東洲斎をひっくり返すと斎東洲→斎藤十というアナグラムになると説明し、「なんで、このお方も後の世で写楽の一人って名が上がるような仕掛けが出来ねえかって」と皆に相談を持ちかけるのです。
やはり、蔦重としては、斎藤十郎兵衛が存在した証しを残したかったのでしょうね。
それにしても、「斎藤十郎兵衛=写楽」というのが現在の定説ですが、それをこういう筋立てにして回収するとは、「こう来たか!」な見事な展開ですね。
尚、阿波徳島藩の蜂須賀家のお抱えの能役者である斎藤十郎兵衛が写楽というのは、考証家の文人・斎藤月岑が天保15年(1844年)に著した「増補浮世絵類考」の「写楽斎」の項に「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」と記載されているからです。
しかし、その斎藤十郎兵衛が実在するかどうかは判らなかったのですが、平成9年(1997年)にその実在が確認させる資料が発見されたたため、この説が俄然有力になりました。
そうです。写楽の正体について、斎藤十郎兵衛説が有力になったのは、つい最近のことだったりするのです。
又、写楽が活動した10か月の期間が、当時の蜂須賀家の当主が参勤交代で帰国していて江戸に不在だった時期に一致していることや、前述した「東洲斎→斎東洲→斎藤十」のアナグラムも傍証の一つになっています。
それと、蔦重から十郎兵衛が阿波蜂須賀家の能役者と聞いた南畝が「蜂須賀家の屋敷は・・・」と言いかけていましたが、「増補浮世絵類考」に記されている当時の八丁堀には徳島藩の江戸屋敷が存在し、その中屋敷には藩お抱えの能役者が居住していたのです。
というワケで、今回、写楽=斎藤十郎兵衛も見事に回収されたワケですが、今に伝わる写楽の正体に関する様々な説は、このドラマのように、実際は蔦重の仕掛けだったとしたら、堪らなく痛快な話ですね(笑)
いや、治済の替え玉云々は別にしても、そういうこともあり得るのかな思うのです。
そもそも、斎藤十郎兵衛の実在は判明したとしても、彼が実際に描いた絵というものは見つかっていないワケですから、有力ではあっても決定的ではないでしょう(笑)
それと、仕事が溜まっているのでと一足先に会合から抜け出した歌麿に、ていが「この度はまことにお助け頂きありがとうございました」と深々と頭を下げて礼を言っていましたが、そこで歌麿がていに返した言葉にはもう涙でしたね。
「こちらこそありがた山でした」と礼を返す歌麿は、「何か許されてるみてえな気がしたんだ。俺ゃ望まれない子でね。けど、写楽の絵には皆が溶け合ってんじゃねえですか。重政先生や政演さん、政美、一九、春朗、蔦重や南畝先生、三和さん、まぁさんの考え、源内先生だって」と素直な心情を吐露しました。
そして、「俺もその一部ってえか・・・。”鬼の子”も、この世の仲間入りしていいんですよって言われてるみたいでさ」と晴れやかな表情で写楽の喜びを伝えるのですが、だからこそ歌麿は自分が写楽なのではなく「皆が写楽、それがいい」と言ったのですね。
って言うか、だからこそこのドラマでは写楽は皆のチームプロジェクトだったワケです。
いや、写楽とは、そうでなければならなかった必然の帰結だったのですね。
そして、そう考えると、写楽とは、治済に対する仇討ちプロジェクト、恋川春町への追悼のプロジェクト、そして、歌麿の精神的な成長という全てに直結する緻密で壮大な物語上のギミックだったことがよく判ります。
ホント、この作劇には唸らされましたが、「そう来たか!」ではなく「そう来て、ああ行って、こう来るの!」でしたね(笑)
で、歌麿は「まぁ、とにかく、声かけてくれてありがとう、義姉さん。義兄さんにもそう言っておいてよ」とていに告げて出て行きましたが、いやぁ、この台詞にもグッときましたね。
おていさんでなく義姉さん!蔦重ではなく義兄さん!歌麿が心から素直にそう呼べる心境に至ったのだなと思うと、本当に感慨深いものがあります。
そして、その翌朝、ていからそのことを聞いた蔦重は非常に喜んでいましたが、なかなかの二日酔いのようでしたね(笑)
と言うのも、南畝が学問吟味(学力試験)に一番で合格したとか、政美が津山松平家のお抱えになったとか、政演の店(煙草入屋)が大繁盛とか、良い話しが多くて、ついつい飲み過ぎてしまったようです(笑)
で、そこで蔦重が口にしていたのが「シジミ汁」!
確かに、シジミ汁は二日酔いに利くと言われていますが、しっかりとアップにもなっていましたし、これはもう朝ドラ「ばけばけ」に対するエール以外にないでしょう(笑)
すると、ていが誰かの忘れ物の「玉くしげ」という本を蔦重に渡しました。
そして、蔦重が本屋の会合で鶴屋に確認したところ、この本は南畝の忘れ物だったようですが、実はこの本がなかなか曲者な本だったのです。
尚、この本の作者は国学者で医師の本居宣長という人物で、その本の中で宣長は「儒学は異国風の虚偽であり、日本には合わない」と説いていました。
なので、蔦重がどうしてこの作者は手鎖にならないのかと尋ねると、鶴屋は「江戸の人じゃないから捕まらないんじゃないですか?市中ではごく小さくしか扱っていないようですし」と答えていました。
そして、そこで蔦重のビジネスセンサーが働くのです(笑)
「小さくしか?」とニヤッと笑う蔦重を見て、「おめえ、またろくでもねえこと考えてんじゃねえだろうな!」「よしてくれよ!仲間!仲間なんだぞ俺ら!」と思いっ切り警戒する本屋仲間たち(笑)
まぁ、彼らも蔦中にはさんざん凝りていますし、鶴屋が「真面目な話、今度何かやらかしたら、身上没収、商い召し上げだと思いますよ」と言うのも頷けます(笑)
で、蔦重は「・・・ですよねぇ」と答えましたが、仲間もよく知ったるもので、「その”ですよね”は違うだろう!」と即座にツッコミを入れていましたが、皆さん蔦重の懲りない面構えをよく判っているのです(笑)
で、その後、蔦重は伊勢に赴き、本居宣長と面談しました。
宣長の本を江戸で売り広めたいというのが蔦重の希望でしたが、宣長は「江戸なんかで大ぴらに売り広められたら、どうなるか知れたもんやない。折角積み上げて来た学問が殺される」と拒否しました。
すると、蔦重は「ここだけの話」として「写楽は松平定信の命で始めた」と打ち明け、自分には定信というバックが付いていることを明かし、定信からの手紙を宣長に見せるのです。
実は蔦重は儒学を否定する宣長の本を売り広めるにあたり、事前に定信に手紙を送って相談をしていたのですね。
流石は蔦重、抜かりがありませんし、築いた人脈は徹底的に生かします。
で、定信の返事には、「儒学は否とするものであっても和学は別。和学は田安が大事にしてきた学問でもある」とありました。
つまり、和学は例外的に許すというお墨付きであり、それを持って蔦重は宣長のもとにやって来たワケです。
尚、蔦重は定信に言いつけられた通り、新刊本などを白河に送っているようですね。
又、白河にいる定信が、ストレスから解放されたかのような、明るくて穏やかな表情をしていたのが印象的でした、
そして、宣長に「儒学は”すべき””なすべき””こうあるべき”。政には都合の良いうってつけの考えだ」と語る蔦重。
確かに、儒学は政治にうってつけの学問であり、忘八の「八」を意味する「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの徳は、全て国家と国民の関係性に置き換えることが出来る都合の良い思想だったりします。
例えば、「孝」は親孝行を示しますが、国王が親で国民が子と考えれば、国民が王のために尽くすのは「孝」であるということになるのですす。
更に、蔦重は「でも、そりゃ異国からのもんで、元々、日の本の考えは違った。この国はイザナギとイザナミが産んだ国。天照大御神がアメノウズメの艶めかしい踊り見たさにうっかり顔を出しちまったような、スケベでおっちょこちょいで祭りが大好きな神様が集う国」であると語りました。
そうです。確かに日本はそんな国ですし、単一神ではなく”八百万の神”が集う国という大きな特徴がある国です。
で、宣長が「スケベでおっちょこちょいは言い過ぎや」とツッコミましたが、蔦重は「その神様たちが起こすいちいちを、俺らのご先祖は受け止めた。生まれ来ること、滅びゆくこと、喜び、悲しみ、善も、悪ですら、”もののあはれ”という飛び切りでけえ器で。そのでけえ器を、私ゃ、江戸の皆に知って欲しいのでございます」と真意を語るのです。
尚、この蔦重の言葉に宣長は大変満足そうな表情を見せていましたが、これは宣長にとっては実に嬉しい言葉だったことでしょう。
なにせ宣長は「古事記」を研究して「古事記伝」という注釈書を著したり、「源氏物語」を研究し、その中に見られる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそが文学の本質であると提唱した人物ですからね。
そして、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な学術思想である儒学を自然に背く考えであると非難した人物なのです。
って言うか、本居宣長を演じた北村一輝さん。
このシーンだけの出番でしたが、一癖も二癖もありそうなキャラクターで、強烈な印象を残したように思います(笑)
ホント、このドラマ、キャスティングが見事だと思います(笑)
そして、伊勢からの帰り道の宮宿で、蔦重は旅籠に耕書堂の黄表紙が置かれているのを見て、「嬉しいねぇ。こんなとこまで」と感慨深そうにしていました。
まぁ、宮宿は東海道最大の宿場ですから、本を置いている店もあったことでしょう。
因みに、宮宿は東海道41番目の宿場で、現在の名古屋市の熱田区にあたります。
すると、蔦重はそこで「黄表紙は短い。もっと長く楽しめるものを出して欲しい」という読者の生の声を聞きます。
これはユーザーニーズであり、蔦重は直ぐにそれを次の商売に反映するのですね。
で、江戸に戻るなり蔦重は馬琴と一九を呼び出して、馬琴には「長い話」を依頼しました。
それは「話の筋がうねるような作品」で、「面白いというのはなにも笑えるということだけではない」と蔦重は言いました。
そして、蔦重は「馬琴の頭の中にあるのは、芝居のような長い話しで、それを黄表紙の短さにしようとするから話がとっ散らかる」と指摘するのですが、蔦重は馬琴がその真価を発揮するのは黄表紙ではないということを見抜いていたワケです。
又、一九には、「江戸に縛られない話」を頼むと言いました。
どこの生まれであるかも問わず、老若男女が等しく楽しめる黄表紙。そんなオールラウンダーな黄表紙を一九に依頼する蔦重。
つまり、一九には、まさに大衆娯楽の王道となる作品を依頼したワケです。
無論、これは後の馬琴の「椿説弓張月」とか「南総里見八犬伝」や、一九の「東海道中膝栗毛」に通じるものです。
そして、そんな名作たちの下地を蔦重が作ったとも言える描写なのでしょうね。
すると、そこにていが長谷川平蔵からの文を持って来ました。
そして、呼び出された蔦重は、とある駕籠屋に出向くのですが、その駕籠屋には休憩中に黄表紙を読んでいる駕籠かきが大勢おり、「どうにも、あそこの女将は、本が好きなようでな」と平蔵が言いました。
それで、全視聴者がピンと来たと思いますが、まさかここに瀬川が!
尚、平蔵は配下が「気を利かせて見つけて来てくれた」と説明しましたが、平蔵もまた「蔦重も気になっているだろう」と考えて知らせてくれたワケです。
「子にも恵まれ、幸せにしておるようだ」という平蔵の言葉に私もホッとさせられましたが、瀬川は吉原から消えた後も必死に生きて来たのでしょう。
本を傍らに、辛い時も、苦しい時も、噴火にも、飢饉にも、大水にも、倹約にも負けずに生きて来たのでしょう。
あ、そうそう。そんな瀬川の現在の名前が「しお」だったりすると、これまた非常に感慨深いものがありますね。
ただ、平蔵はそれだけを伝えるために蔦重を呼び出したワケではありませんでした。
平蔵は「実は、岡場所に大掛かりな警動が入る」と、蔦重に吉原に関わる重要な情報を知らせてくれたのです。
「その者らは、皆、吉原に押し込まれる。吉原は更に厳しくなるだろう」と言う平蔵。
しかし、「それでも、時には蓮の花が咲く、泥沼であって欲しい」と、吉原への平蔵なりの思いを口にするのです。
確かに、平蔵にとって、吉原は青春の場所でした。
蔦重と瀬川(当時は花の井)に50両をふんだくられたこともありましたが(笑)、それでも思い入れの深い場所に違いありません。
たとえそれが情勢が変わって泥沼のような混濁した場所になってしまったとしても、「泥中の蓮」という言葉があるように、時には蓮の花が咲く場所であって欲しいというその願いは、平蔵の偽りのない真摯な想いであったと思うのです。
そして、女将の後ろ姿を声を掛けるでもなく笑顔で見つめる二人。
一人の女郎に惚れた者同士、共にかつての青春の欠片を見送ったのかもしれません。
尚、平蔵は自慢のシケもすっかり白くなってしまい、又、身体も相当に悪いようです。
因みに、平蔵は寛政7年(1787年)に50歳の若さで亡くなっていますので、これは死ぬ前の友人への粋な計らいだったのかもしれません。
で、蔦重は吉原の親父たちに「警動」を知らせましたが、岡場所から流れて来た女郎は岡場所の連中によって安売りされます。
茶屋も通さず、座敷も開かず、食えない女芸者は色を売り出し、料理屋も潰れていく。
倹約と風俗の取り締まり以降の吉原は、相変わらずそんな状況が続いているワケです。
そんな状況に追い討ちをかけるかのような更なる警動に親父衆は憤懣やる方ない表情でしたが、そこで蔦重が吉原の「定書」を作ることを提案しました。
吉原で商売をするのならば、守らなければならない「しきたり」を書面にして、お上のお墨付きを貰って公のルールとする。
「不粋極まりねえけど、このままじゃ吉原の流儀も廃れる。流儀が廃れて良くなるってんなら話は別ですが、女は安くなり、町もやってけねえってんなら、向うの流儀に合わせる義理もねえでしょう」と蔦重は言いましたが、それは全く以てその通りです。
又、その定書に女郎の扱いも書いてしまえば、女たちの扱いが纏めて引き上げられてしまうことも防ぐことが出来ます。
そして、蔦重たちは81箇条にも及ぶ事細かな定書を作り、それが御公儀お墨付きの「新吉原町定書」の誕生に繋がるのです。
って言うか、吉原に最も大事なのは「格」と「流儀」であり、逆を言えば、それが吉原を吉原たらしめている要素と言えますし、平蔵もそこを愛したのでしょう。
それと、以前に蔦重の尽力で吉原が女郎の扱いや福利厚生などを見直すという流れがありましたが、「格」と「流儀」を守ることは女郎を守ることにもなります。
そして、蔦重にとっての吉原は、世間から「見上げられる場所」であって、そこで働く女郎たちが「良い思い出を一杯持って大門を出ていける場所」にしたいという思いは、今でも変わっていないのです。
一方、耕書堂は、馬琴の読本が話題を呼び、本居宣長の書物は待ちかねていた知識層にバカ売れし、硬軟両面で存在感を示す本屋となりました。
尚、「硬」である書物の部分でも売り上げを伸ばしたというのは、身上半減の中でも書物問屋の株を買っておいたのが功を奏したということにもなりますが、これはおていさんのお手柄と言えるでしょう(笑)
で、そんな我が世の春の蔦重でしたが、吉原の会合の席でその身に異変が起こりました。
左足がいうことを聞かず、続けざまに二度も転んでしまったのです。
我らが蔦重は、寛政8年(1788年)の秋、恐ろしい病魔に襲われてしまいました・・・。
というところで、このあらすじ感想は次回に続きます。
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